博士号論文『580年間に作られた脳』 -第0章-

第0章  導入編・現場からの報告

1)健康に生きるには
           (脳はゴミ箱ではない)

 ジョン・ロックは、「健全な精神は、健全な体に宿る」と言いました。そこで、私は次のように言いたい。
  「健全な精神と知性は健全な体に宿り、健全な体は健全な内部生命力が生み出す。この内部生命力は、健全な食生活・適度な運動・適切な精神的活動・教育によって、体液につかった細胞に宿る。また、これらは相互関係があり、表裏一体をなすものだ。逆に、健全な体液につかった細胞が生み出す生命力は、食生活・運動・精神的活動・教育によって、健全な精神と知性に宿る。」
即ち脳は、箱のような容器として、単に知識を詰め込む所として捕えられるものではなく、内部生命力を持った、創造性あるものを生み出す生命体という立場から捕えられるものだと思われる。


2)内部生命力から捕えた教育
           (蒸気機関車)
 教育の歴史を顧みる時、教育が単に「教育の領域」のみで議論されるべきでないことは、多くの人達の認めるところである。教育はその時代の文化・経済・政治等によって大きな影響を受けてきたからだ。
 現代の多くの学者や教育論者達は、日本の教育を論ずる際、中学生の校内暴力や家庭内暴力、そして生徒の学力低下等の原因は多くの複合的要因によるものと指摘している。しかし、原因として指摘されたものは、能力低下や粗暴化している生徒個人から見れば、外部環境であるように思われる。人間を初めとして多くのものは、外部環境だけでなく内部環境にも影響を受けている。例えば、蒸気機関車が動き出すためには、外部環境である線路や枕木等が整備され、さらに良質の薪や石炭を必要とする。しかし、どのように外部環境を整えたとしても、内部生命力としての火種がなければ、この蒸気機関車は動き出さない。また、ある時期においては内部環境が外部環境に優越し、他の時期においては外部環境が内部環境に優越する場合もある。特に、子供が成人になる時期までは、内部環境をより一層重要視する必要がある。というのも、内部環境の一つである、細胞が持っている力、即ち内部生命力がその時期に、極めて活発に動いているからだ。
 従って生徒の教育では、単に外部環境(教育方法・教材等)だけに目を奪われることなく、内部環境から生じる内部生命力(火種)の重要さを認識することが特に大切だ。その他、強い健全な意思とバランス感覚のとれた物の見方・考え方の育成が重要なのだ。


3)内部生命力が不安定な新人類
         (原種が求められている)

 衣食住の欧米化に伴い、現代の日本人、取り分け戦後育ちの者は足が長くなり、平均身長が戦前に比べて十数センチも伸びている。しかも、このような肉体的変化だけでなく、物事の見方・考え方そして精神面でも昔に比べて大きく変化している。
 現代の若者の中には、胃腸や足腰が弱くなり、しかも歯や骨自身が脆くなっているものが増加している。朝礼で、気持が悪くなったり、倒れたりする生徒が多くなってきている。また、体育の授業で、腕立て伏せや懸垂が一回も出来ないとか、幅一メ-トルの二本の白線の中を真っすぐに走れなくなっているという報告がある。
 こうした現代の子供達の変化は人間の進化なのだろうか。それとも、時代の流れによる自然退化なのであろうか。このような変化は、箸が上手に使いこなせなかったり、マッチが擦れなかったり、靴の紐が結べないのとは根本的に違うように思われる。後者は、時代の流れの中で、フォ-クやナイフそして自動点火機という様式の変化に伴い、使用しなくなったために上手に使いこなせなくなっに過ぎない。だから、教育によってほとんど解決される問題なのだ。
 しかし、前者で述べた胃腸、歯そして骨等の強さなどは、人間が他の動物たちと同じように自然界の中で生活するために、本能的に持ち備えていたものだ。しかも、それは、後天的教育以前の問題である先天的内部生命力によるもの(実は、この内部生命力は食生活等を用いれば強化され得るという意味で後天的ですが。)と考えられる。
 現代の子供たちを見ていると、持って生まれた内部生命力が弱っているように思われる。この現象は人間だけに限らず、我々が栽培している植物や飼育している家畜にも見受けられる。今日の食べ物がもつ特徴の一つとしては、本来のそれらとは違って、一般的に水っぽいように感じらる。 例えば、今のきゅうりやトマトが、水分以外の成分が昔のそれに比べ半分位しか含まれていないため、水っぽく、味が落ちていることがあげられる
 ところで、品種改良によって稲や果物を作る時、特に最近盛んな遺伝子組み換えによる品種改良においても、絶対に欠くことの出来ないものがある。それは原種である。どんな良い品種も永久に良い品種でいられるとは限らず、品種改良品同志から新しく作った品種は、他の病気に弱い傾向がある。そこで、その対策にはその原種との掛け合わせが必要だ。このように品種改良には原種が必要であるということを考慮すると、人間社会にもこの原種に相当するもの、即ち健全な内部生命力を備えた人間が、今日益々求められているのではないか。


4)脳が病み始めている

 内部生命力が不安定になっていれば、一般に私達は仕事がはかどらないことを知っている。例えば、どこか体の調子が悪ければ、私達は肉体的労働も精神的労働も決して長続きしない。仮に無理をして働いても、不満足な仕事になる。また、車の運転をしていて、冷やっとすることもある。さらに、酒を飲めば脳の機能も一時的に落ち、飲む時期・量・方法を誤ると周囲の人達に多大な迷惑をかける場合が起こる。だから、スポ-ツ選手は技術と精神を磨くだけではなく、試合日に合わせて体の調整に努めている訳だ。
 さて、この内部生命力の母体である体は、何を持って作られたのか。私達の体は細胞組織で作られているが、私達はあまりにもミクロ的単位まで目を向け過ぎて、この体が毎日の食生活に依存していることを、忘れている。
 食生活に依存している体は、不安定な内部生命力のもとで、時として病む場合がある。即ち、胃・肺・腎臓・肝臓・心臓等は時折病み、これらの臓器の悪化がが進み、不幸にして死亡される方が多い。それでは、教育において最も大切な脳は病むことがないのか。

 脳も他の臓器のように食物によって作られている以上、病に犯されることのない特殊な器官ではなく、他の臓器と同じように病むことがある。脳は、突然の悪化により、時には私達の命を奪ってしまうほど病に冒されている。私達は兄弟や他人の欠点にはよく気付くが、自分自身についてはなかなか気付かない。これと同じように、脳は、目・耳・胃等の臓器が病んでいることには良く気付くが、自分自身が病んでいることにはあまり気付かないでいる。             
私は18年間学習塾を経営し、現在も現場で数学教育を指導している。その結果、確かに一部の学生の学力は付いてきた。しかし、それは後天的教育結果であって、先天的に脳が備えている能力は、寧ろ10数年前の学生より、はるかに劣っているように感じられる。

 次の重要な事実を頭に入れておいて下さい。私達が物事を考えたり、行動を取ったりするのは、頭脳の神経組織だけで行なっているのではない。フランス人、ノ-ベル賞受賞者アレキシス・カレル博士は、著書『人間この未知なるもの』(訳桜沢如一、角川書店、現在絶版)の中で次のように述べている。
 「事実において大脳中枢は単に神経組織のみでできているのではない。故にすべての器官は、血液及び淋巴液の仲介によって脳皮質の中に存在しているのである。我々の精神状態は脳髄を満たしている液体の化学的成分や大脳細胞の構造に深く結びつけられているのである。各器官の細胞が内部環境(注、本書で用いている内部環境とは少し異なっています)に色々な物質を出して我々の精神的或は心理的活動に働きかけるということも確かである」